Masuk前の恋は、己の身を焦がすようなものだった――あのときのことを思い出すと、今でも胸が絞られるように痛くなる。もう恋なんてしないと思っていたのにな…… 隣で口を開けたまま眠る愛しい人の寝顔を覗き見ながら、先ほどまでのやり取りを思い出してみた。 俺の予想を裏切ることなく、直前でビビった小林さんを押し倒してやったんだ。「おっ、お前みたいな奴にヤられるほど、落ちぶれちゃいないんだからな!」 なぁんて若干震えるような大きい声で言い放つと、俺の肩を掴んで力いっぱいに押し返されてしまった。 ゴンっ!「痛っ!!」「あ、済まん……つい!」 後頭部をフローリングの床でしたたかに打ち付けた俺を見て、小林さんは焦った表情をあからさまに浮かべ、両腕を意味なくばたつかせた。(普通ならその手を使って痛めたところを撫で擦るとか、悪かったなと謝ってぎゅっと抱きしめることをしたらいいのに) そんな不器用過ぎる姿に、思わず笑みが零れてしまう。「だ、大丈夫なのか?」 アキさんとは全然タイプの違う、この人を好きになった:理由(わけ)。「大丈夫ですよ。こうみえて、結構頑丈に出来ているので」 困り果てているその顔に両手を伸ばして、頬を包み込んでやる。手のひらに伝わってくる小林さんの熱が、本当に心地いい――「竜馬……?」「俺に手を出される前に、さっさとヤっちゃってくださいよ」 いつでもどんなときでも俺のことを一番に考えてくれる、とても優しいこの人が好きだ。「ヤっちゃってなんて、軽々しく口にするなよ」「だーって小林さんってば下半身はヤル気満々なくせに、なかなか手を出してくれないから」「くぅッ!!」 事実を告げた途端に、顔を真っ赤にして息を飲む。しかも両手を万歳したままという、マヌケ過ぎる姿で停止するなんて――「……そんな可愛い貴方が大好きですよ」 相手を思うあまりに躊躇して手を出すことができずにいる小林さんのように、アキさんに接していたら、どうなっていたのかな。そもそも不毛な恋だったのに、手を出さなかったら余計に何も起こらないか。自分の気持ちを知られることなく燻らせて終わらせるなんて、俺には絶対にできない。「小林さん、辛かったら言ってほしいんだ」 真っ赤な顔をそのままに目を瞬かせ、きょとんとした表情を浮かべた。「俺、すっごく重いから。相手の気持ちを考えずに、押し
***『夕飯は時間がかかるものを作る』と海辺で盛大に言い放ったのに、宝飾店の帰り道に寄ったスーパーで竜馬がチョイスした物は、チンして食べる出来合いのお惣菜ばかり。たいして重くない買い物袋を小林が手にし、仏頂面のままでいる竜馬の顔を覗き込んだ。「……何ですか?」「どうしてそんな顔をしているのかって。無理して笑えとは言わないが」「誰がこんな顔をさせたと思ってるんですか。ムカつく!」 小林の笑顔に勝てない竜馬。それを分かっているからこそ、ここぞというときにそれを使う小林が、どうにも憎くてたまらなかった。「こっちに来い」 言うなり竜馬の腕を引っ張り、エアコンの室外機が置かれている狭いビルの隙間に無理矢理押し込む。 足元に買い物袋の置く音を耳にしたときには、小林にぎゅっと抱き竦められていた。「指輪……。色気のない渡し方をして悪かった」「なんで今更こんな場所に引きずり込んで、抱きしめながら謝るんですか。誠意が感じられないですって」「今日に限って何をやっても、竜馬に叱られてばかりいるな」 反省の色がない小林の態度に呆れ返り、されるがままでいた。無精髭が頬に当たってチクチクしたけど、小林の存在を間近で感じることのできる感覚は、愛しさを伴うものだった。「小林さん、どうしてあのタイミングで、指輪を渡そうと思ったんですか?」 微妙な雰囲気を打破すべく、まずは疑問に感じたことを口にしてみた。「お前が俺の物だっていう、印が欲しかったから」「印?」 囁くように言葉を発すると、小林の顔が目の前に移動してきた。薄暗がりだったけどその表情は、大通りに設置された街灯の明かりでしっかりと確認できる。いつも口元に浮かべている笑みがなく、どこかしょんぼりしているように見えた。「イケメンすぎる竜馬くん。身近でお前を狙ってるヤツがいるんだぞ」「それって1ヶ月前に、事務のバイトで入ってきたコですよね?」「何だ、気がついていたのか。『畑中くんってすっごくカッコイイし、優しいですよねー。彼女いるんでしょうか?』なぁんていうのを、内勤のヤツらに根掘り葉掘り聞いて回っていた」 必死に声色を高くして可愛らしくセリフを言い切った小林を、白い目で竜馬は見つめ続けた。ところどころ掠れて可愛らしさの欠片すらないそれに、軽くため息をついてみせる。「全然似ていないモノマネを見せられるとは、
小林が竜馬に贈った指輪のサイズを直すことと、同じ指輪を注文するためにふたりで宝飾店に足を運んだ。 同性が同じ指輪をすることに多少なりとも店員に嫌悪感を示されると思いきや、そこはサービス業らしく、嫌な顔ひとつせずに接客してもらえた。そのお蔭でふたりで時折顔を見合わせたりと、和やかに過ごすことができた。 竜馬に贈った指輪の直しは、保証期間内ということで無料でやってもらえることになった。その後、小林に贈るための指輪を購入すべく店員に金額を聞いて、竜馬は心底驚いてしまったのである。「何が『そんなに高いものじゃないから気にしないでくれ』ですかっ。気にしちゃう金額でしょ!」「わっ悪かったって。ああでも言わないと、貰ってくれないと思ってだな」 突然はじまった口論に店員が弱ったなぁという表情で、チラチラとふたりを見やる。「小林さんが不愛想な顔して、強引に指輪を渡したりするからですよ。絶好のロケーションの中で、あんな風に色気のない渡し方をしてきてさ」「しょうがねぇだろ。オーダーメイドってヤツは手間暇かかる分、高くなっちまうんだから。それくらいの価値が、お前にあるってことだよ」 不愛想を指摘したからか満面の笑みで気持ちを告げた小林に、竜馬はなす術がなかった。いつものように黙り込むしかない。「……すみません。分割払いってできますか?」 いろんな事情で頬を染めながら店員にお願いし、オーダーは無事に完了したのだった。
(……面白くない) 小林さんと両想いになって、今日でちょうど一ヶ月が経った。 ぶっちゃけると、あの海辺でキスをしてから一切何もない。普段の日常が毎日、繰り広げられているだけなんだ。あの告白が、まるでなかったように―― 両想いなのに、何でこんなに苦しまなきゃならないんだよ。片想いしている方がまだマシじゃないか! 定時になり、仕事を終えた仲間が次々と去って行く中、デスクの上で拳を握りしめた。(奥手すぎる、小林さんを好きになったツケがこれなのか!?) そんな自分の恋愛運を呪いつつ前方で残業らしきことをしている小林さんに、じーっと視線を飛ばしてみる。「そんな書類なんか見てないで、俺の視線に気がついてくれって……」 恨めしくぼそりと零したところで仕事熱心な恋人は、まったく俺の視線に気がついてはくれない。その様子は、清々しさを感じてしまうくらいだ。 視線を飛ばしていないで、さっさと声をかければいいって思うだろう? できたらやっているさ、踏み込めない理由があるからできずにいる。互いに一度、恋愛で痛い目に遭っているからこそ妙に引き際がいいせいで、踏み込む直前になって逃げるように、自分から引いてしまうんだ。相手をキズつけないように…… 想い合いすぎて引いちゃうとか、笑い話にもならないよな。バカみたいだ、俺たち。 小林さんから視線を逸らそうとした瞬間、やっとこっちを見てくれた。 俺の顔を見て、『あ……』と言いながら目をキョロキョロさせ、頬をぽっと赤くする。無性に可愛いすぎる姿に、苛立っていた気持ちが少しだけ落ち着いた。 そんな小林さんの赤ら顔を他の同僚に見せたくないというジレンマと、変わらない間柄に苛立っていた俺は、あることを思いついてしまった。『好きですよ』 未だにこっちを見ている小林さんに向かって、そう口パクしてやった。それなのに何を言ってるんだという表情を浮かべ、小首を傾げながら肩を竦める。 いいようのないもどかしい距離感――伝わらない気持ちは以前のままなれど…… デスクの上で握りしめた拳を使って、えいやと立ち上がり、靴音を立てて愛しい恋人の傍まで赴いた。「り、竜馬?」 傷つけないように、深く愛したいだけなのにな。どうして上手くいかないんだろう?「――今夜、お暇でしょうか?」 きっかけを作れば、この人は動いてくれる。……と思いたい。「
――コイツと一緒に、海を見たかっただけ……気分転換になるだろうなと思ったから。「あっ、小林さん。お疲れ様です」 先に来ていた後輩は顔だけ振り向いて、嬉しそうに微笑んできた。 もうすぐ日没を迎えようとしている、国道沿いにある某浜辺。デートスポットにもなっている場所なので、平日ながらカップルがぽつぽつといらっしゃる状態だった。「おー、お疲れ。外回りは順調だったか?」「それなりに、まあ。……てか、どうしてここを待ち合わせ場所にしたんですか? 男同士で来てるの俺たちだけって、ちょっと――」「どうしても海を見ながら、煙草を吸いたくてな。ひとりぼっちは寂しいから、お前を呼んだだけ」 眉をひそめ、辺りをキョロキョロする挙動不審な後輩に、笑いながら理由を告げてやった。「げーっ。それだけのために呼ばれたなんて……」 他にも何か文句を言い続けるのをしっかり無視して、上着のポケットから煙草を取り出し、口にくわえた。「……はい」 隣から火の点いたライターが、そっと差し出される。海風に消えそうなそれを手で包み込み、顔を寄せて煙草に火を点けた。「いつも気が利くな、ありがとよ」「別に。……小林さんには世話になってるから」 目の前で沈む夕日を浴びているせいか、後輩の頬を赤く染めているのを横目で見た。短く切り揃えられた前髪が、時折吹き抜ける風で舞い上がり、端正な輪郭を更に格好良くみせている。(どーして世の中、こんなにカッコいい男を振るヤツがいるんだろうか) などとしんみり思いながら、煙草の煙をふーっと吐き出した。「お前、海が嫌いか?」「えっ!?」「やっ、何かさっきから、つまらなそうにしてるからさ。カップルだらけの中で野郎といるのが嫌とか、要因はたくさんあるだろうけど」 俺は一緒に、海が見たかったんだけどな――「……元奥さんと来た場所ですか?」 ワガママを発動して連れてきた俺に復讐すべく、平然とした顔でさらりと酷いことを言う。「どうだったかな。大昔の話過ぎて覚えちゃいない」「嘘だぁ! 記憶力が社内で一番の小林さんが、覚えちゃいないなんて言葉は信じられませんって」 どこか可笑しそうにくちゃっと破顔してから、夕日が沈みかける海原へ、そっと視線を移した後輩。 絶好のロケーションのはずなのに、それを見つめる瞳はどこかやるせなさを含んだもので。見覚えのある
いつもより穂高さんってば、はしゃいでいるな――。 大好きな恋人の手を引っ張り、丘を下りながら考えた。何かしら、はしゃぐ要因があっただろうかと。 土日の週末は基本的には漁はお休みで、千秋自身も仕事が休みだからずっと一緒にいられる。日頃互いの仕事のサイクルが違うためすれ違ってしまうからこそ、貴重な週末なのだけれど……。 それがはしゃぐ要因になっているとは思えないなぁと、改めて考え直していたときだった。「ねぇ千秋、お土産屋さんでも覗いてみるかい?」 唐突になされた提案に、リズミカルに下りていた千秋の足がゆっくりになる。必然的に穂高と並んで歩いた。「お土産屋さん?」「ん……。今晩の晩酌に、島の特産になっているチーズと干物を手に入れたいと思ってね」「だからって、あまり飲みすぎちゃ駄目ですよ」 アルコールに強いことが分かっていても恋人の躰の心配をする千秋の言葉に、小さく笑いながら頷いた穂高。絡んでくる視線が自分を好きだと言っているのを、自然と感じることができた。 包み込むような眼差しひとつに、躰が疼いてしまう――。 それを隠そうと視線を外した途端に穂高は千秋に顔を寄せるなり、こめかみにそっとキスを落とす。自分から視線を外すなと言わんばかりに。「穂高さん、人目のあるところで大胆なことをしちゃ」「だって千秋が、可愛い顔を隠すせいだよ。貴重なその表情を拝んでいたいというのにね」 とどめをさすように繋いでいる手を持ち上げて、千秋の甲にちゅっとくちびるを押しつけた。穂高の嬉しそうな顔に、しょうがないなぁと思わされてしまう。「それでお土産屋さんに寄ることは、どうするのだろうか?」 耳元で囁かれる穂高の声で躰がゾワッとし、眉根を寄せて肩を竦めた。迷惑そうにしている千秋の表情を見てもなんのその、困った顔をしているのを楽しげに見下してくる。「勿論、行きますよ。晩酌するのが分かっているからこそ、行かなきゃって感じですし」 だったら早く行こうという感じで、繋いだ手を引っ張って歩く。そんな穂高の手をぎゅっと握りしめた。「千秋?」(いい大人の自分たち――この島では兄弟という間柄になっているから、手を繋いでいても変な目で見られないだろう。だけど……) 千秋は服の下に隠しているネックレスの先についている指輪に、反対の手で触れた。これからもずっと一緒に生きていこう
「今宵もそのお姿、麗しいですね」 バーのカウンターで1杯引っ掛けていたら、聞き慣れた声が背後からした。 顔だけで振り向くとそこにいたのは、警察にとっ捕まっているハズのやーさん。この歓楽街を牛耳る某団体に所属、そのお陰で変な揉め事はなかったんだけど。某団体に所属してる下っ端のコが、刑事を射殺してから組員が相次いで逮捕されていた。「昴さん、出て来れたんだ。おめでと」 手に持っていたグラスを掲げてやると隣に座り込み、いつものやつを注文する。「保釈金払って、無事に生還。今の警察じゃあ、俺らを拘束することが出来ないから。弱みを強みに上手いこと、利用しているからね」「おお~怖い。そして相変わ
街に色彩を与えていた紅葉が、冷たい秋風にその身を任せて、アスファルトの上をカラカラと乾いた音を立てて転がっていく様を、煙草を咥えたまま、ぼんやりと眺めていた。 千秋と出逢った時には、色付き始めていた頃だと記憶しているのだが、いかんせん曖昧だ。それだけ彼のことに、夢中になっていたから―― 店員と客以上の関係になるべく親しげに話しかけて、何とかキッカケを作り、騙した形で車に乗せたっけ。「今となっては、懐かしい思い出だ」 ぼそっとごちながら、燻らせていた煙草の火を消すべく、車の中にある灰皿に押し付けた。あと少しで、コンビニの仕事を終えた千秋が出てくる。 今夜、ホストの仕事がいきなり休
その日は空気が凛と澄んでいて、とても寒い夜だった。 コンビニのバイトがいつもの時間に終わり、手を擦り合わせながら肩を竦めて店の外に出る。夜空を見上げるとそこには、雲ひとつない空にキレイな星が、これでもかとキラキラ瞬いていた。「ひとりで見るよりもふたりで見た方が、もっとキレイなんだろうな……」 今、隣にいないあの人のことを思い、胸の中がきゅっと切なくなる。 俺の名前は紺野 千秋。市内の大学に通う二年生。親の仕送りとバイトで生計を立てていた。 はーっとあたたかい息を両手にかけて、俯きながら歩き出した途端、身体を奪うように後ろから強く抱きしめられた。包み込んでくれるその二の腕は絶対に
目覚ましが鳴る前に、珍しくふと目が覚めてしまった。何だろう、この妙な胸騒ぎは……。胸騒ぎというか、高鳴りというか。 ――何かの夢を見ていた。 ノルマとか人間関係とか、毎日擦り切れそうになりながら、くたくたに疲れ果てた自分の心が、何故だかほっとするような、そんな癒し系の夢だった気がする。「目が覚めた途端に消し飛んでしまうとは、すごく残念だな」 時間を確認しつつ起き上がり、両手を上げて伸びをしてから、傍らに置いてある煙草に、そっと手を伸ばした。「ん……?」 煙草と灰皿の間に、白い色した煙草の銘柄が書いてある、いかにも景品でつけましたという感じの安っぽいライターが、いつも使っている